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2023年4月18日(火) 享保飢饉供養法要
享保飢饉供養法要
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享保飢饉供養法要
4月18日(火) 享保飢饉供養供養法要
13時30分より 御説教 西郷信行師(みやこ町犀川 慈光寺)
15時30分より 読経供養 正受寺住職・副住職
本年の享保飢饉(きょうほうききん)供養法要は4月18日13時30分より御説教、15時30分より読経供養を行います。
享保飢饉餓死者供養・参詣者先祖供養をし、経木塔婆供養も行います。
正受寺では毎年 享保飢饉供養法要を行ってきました。
享保飢饉とは江戸時代中期の享保17・18年(1732・33)、西日本一帯で起きた飢饉です。
長雨とイナゴによる米の不作、それに加え疫病の流行により小倉藩で約4万人が亡くなられました。
正受寺のある旧京都郡(行橋・苅田・勝山)では6050人、約4人に1人が命を落とされました。
餓死者数を記した掛け軸
ここ旧京都郡では当時の正受寺住職が粥を振る舞い、亡くなられた方一人ひとりに読経供養を捧げたそうです。
そのため、亡くなられた方々のお名前を記した過去帳と供養塔がまつられています。
餓死者の俗名と御戒名の巻物
享保院霊塔
みなさまの御参詣と御支援により約300年にわたる供養法要が続けられています。
(江戸時代末期の延永手永・新津手永の大庄屋
中村平左衛門さんの日記
によると1856年7月に御参詣記録あり)
291年目の法要では皆様の御健康・新型コロナ早期終息も祈願致します!
4月18日15時より享保飢饉(きょうほうききん)供養法要を厳修いたしました。
享保飢饉とは江戸時代中期の享保17・18年(1732・33)、西日本一帯で起きた飢饉です。
長雨とイナゴによる米の不作、それに加え疫病の流行により小倉藩で約4万人がお亡くなりになりました。
正受寺のある旧京都郡(行橋・苅田・勝山)では6050人、約4人に1人が命を落とされました。
享保17年(1732)に起きた飢饉であるため、今年で290年目の御供養にあたります。
本年もコロナ禍のため住職・副住職が読経・塔婆供養し、寺総代・村役員の皆様のお力添えと近隣の皆様の御参詣により無事にお勤めできました。
本堂前にある享保飢饉慰霊の「享保院霊塔」を拝塔いたしました。
飢饉の際に被災なさった各地区の区長さんに御案内したところ、御多忙中にもかかわらず御参詣いただき感謝申し上げます。
コロナ禍のため御説教(法話)や御斎(精進昼食)はできませんでしたが、享保飢饉餓死者・参詣者先祖諸霊位へ心を込めた読経供養と塔婆供養、皆様の健康や病魔退散・豊作祈願などをいたしました。
来年はコロナが終息し、多くの皆様に御参詣いただける法要となるように祈っています。
本年も新型コロナウイルス感染拡大防止のため、享保飢饉(きょうほうききん)供養法要は4月18日15時より住職・副住職のみにて読経供養といたします。
享保飢饉餓死者供養・参詣者先祖供養をし、塔婆供養も行います。
例年は2日間にわたる御説教やおとき(精進昼食)もございますが、感染拡大防止のため中止いたします。
正受寺では毎年 享保飢饉供養法要を行ってきました。
享保飢饉とは江戸時代中期の享保17・18年(1732・33)、西日本一帯で起きた飢饉です。
長雨とイナゴによる米の不作、それに加え疫病の流行により小倉藩で約4万人が亡くなられました。
正受寺のある旧京都郡(行橋・苅田・勝山)では6050人、約4人に1人が命を落とされました。
餓死者数を記した掛け軸
ここ旧京都郡では当時の正受寺住職が粥を振る舞い、亡くなられた方一人ひとりに読経供養を捧げたそうです。
そのため、亡くなられた方々のお名前を記した過去帳と供養塔がまつられています。
餓死者の俗名と御戒名の巻物
享保院霊塔
また、みなさまの御参詣と御支援により約300年にわたる供養法要が続けられています。
(江戸時代末期の延永手永・新津手永の大庄屋
中村平左衛門さんの日記
によると1856年7月に御参詣記録あり)
享保飢饉餓死者・先祖供養の読経供養をいたしますが、本堂内と本堂前にてお参りができるようにいたします。
290年目の法要では皆様の御健康・新型コロナ早期終息も祈願致します!
本年も新型コロナウイルス感染拡大防止のため、享保飢饉(きょうほうききん)供養法要は4月18日14時より住職・副住職のみにて読経供養させていただきます。
享保飢饉餓死者供養・参詣者先祖供養をし、昨年は中止した塔婆供養を本年は行います。
例年は2日間にわたる御説教やおとき(精進昼食)もございますが、感染拡大防止のため中止いたします。
正受寺では毎年 享保飢饉供養法要を行ってきました。
享保飢饉とは江戸時代中期の享保17・18年(1732・33)、西日本一帯で起きた飢饉です。
長雨とイナゴにより米の不作、それに加え疫病の流行で小倉藩で約4万人が亡くなられました。
正受寺のある旧京都郡(行橋・苅田・勝山)では6050人、約4人に1人が命を落とされました。
餓死者数を記した掛け軸
ここ旧京都郡では当時の正受寺住職が粥を振る舞い、亡くなられた方一人ひとりに読経供養を捧げたそうです。
そのため、亡くなられた方々のお名前を記した過去帳と供養塔がまつられています。
餓死者の俗名と御戒名の巻物
享保院霊塔
また、みなさまの御参詣と御支援により約300年にわたる供養法要が続けられています。
(江戸時代末期の延永手永・新津手永の大庄屋
中村平左衛門さんの日記
によると1856年7月に御参詣記録あり)
享保飢饉餓死者・先祖供養の読経供養をいたしますが、皆様は本堂前にてのお参りとさせていただきます。
3密を避けるため、できる限り本堂内への立ち入りがないような配置に変更いたします。
例年は本堂奥に掛けている地区別餓死者数を記した掛軸を本堂入口にお祀りし、外からお参りいただけるようにします。
堂内参列は御遠慮させていただき、受付と焼香台も本堂前に設置し本堂前にて御参りできるようにいたします。
亡き方々の御供養は私たちがしっかりと行いますので、生き仏の皆様は元気でいてください!
289年目の法要では皆様の御健康・新型コロナ早期終息も祈願致します!
4月18日、288年目の享保飢饉供養法要を行いました。
例年は2日間の御説教・法話と法要を行いますが、本年は新型コロナウイルス感染拡大防止のため法要のみといたしました。
3密を避けるため、できる限り本堂内への立ち入りがないような配置に変更いたしました。
例年は本堂奥に掛けている餓死者指数を記した掛軸を本堂入口にお祀りし、外からお参りいただけるようにしました。
堂内参列は御遠慮させていただきましたが、当日お参りにお越しの方もおられました。
そのため、受付と焼香台も本堂前に設置し、できる限り接触を最少にしました。
また、次亜塩素酸水による消毒、マスクをお持ちでない方々に配布も行いました。
4月18日14時より本堂内にて住職・副住職で読経供養法要をいたしました。
享保17・18年(1732・33)の享保飢饉でお亡くなりになられた旧京都郡内6,050人の御供養・先祖供養をさせていただきました。
また、皆様の健康祈願と共に、新型コロナウイルスの早期終息祈願もいたしました。
本年は緊急事態下での法要となりましたが、できる限りの工夫をして供養法要をさせていただきました。
皆様が安心して暮らせる平穏無事な生活が一日でも早く戻るよう、今後もお祈りいたします。
享保飢饉の時のようにお寺ができる役割を少しでも実行していきますので、皆様一緒に難局を乗り越えましょう!
本年は新型コロナウイルス感染拡大防止のため、享保飢饉(きょうほうききん)供養法要は4月18日14時より住職・副住職のみにて読経供養させていただきます。
例年は2日間にわたる御説教やおとき(精進昼食)もございますが、感染拡大防止のため中止いたします。
享保飢饉餓死者・先祖供養の読経供養をいたしますが、皆様の御参列は御遠慮させていただきたいと思います。
亡き方々の御供養は私たちがしっかりと行いますので、生き仏の皆様は元気でいてください!
288年目の法要では皆様の御健康・新型コロナ早期終息も祈願致します!
正受寺では毎年 享保飢饉供養法要を行ってきました。
享保飢饉とは江戸時代中期の享保17・18年(1732・33)、西日本一帯で起きた飢饉です。
長雨とイナゴにより米の不作、それに加え疫病の流行で小倉藩で約4万人が亡くなられました。
正受寺のある旧京都郡(行橋・苅田・勝山)では6050人、約4人に1人が命を落とされました。
餓死者数を記した掛け軸
ここ旧京都郡では当時の正受寺住職が粥を振る舞い、亡くなられた方一人ひとりに読経供養を捧げたそうです。
そのため、亡くなられた方々のお名前を記した過去帳と供養塔がまつられています。
餓死者の俗名と御戒名の巻物
享保院霊塔
また、みなさまの御参詣と御支援により約300年にわたる供養法要が続けられています。
(江戸時代末期の延永手永・新津手永の大庄屋
中村平左衛門さんの日記
によると1856年7月に御参詣記録あり)
2010年4月17日(土) 朝日新聞 「新・京築風土記」 掲載 「正受寺の法要」
享保飢饉(きょうほうききん)供養法要 当日の朝刊に掲載されました。
享保飢饉とは江戸時代中期の享保17・18年(1732・33)、西日本一帯で起きた飢饉です。
長雨とイナゴにより米の不作、それに加え疫病の流行で小倉藩で約4万人が亡くなられました。
正受寺のある旧京都郡(行橋・苅田・勝山)では6050人、約4人に1人が命を落とされました。
ここ旧京都郡では当時の正受寺住職が粥を振る舞い、亡くなられた方一人ひとりに読経供養を捧げたそうです。
そのため、亡くなられた方々のお名前を記した過去帳と供養塔がまつられています。
記された餓死者の戒名と俗名
享保院霊塔
また、みなさまの御参詣と御支援により約300年にわたる供養法要が続けられています。
(江戸時代末期の大庄屋 中村平左衛門さんの日記によると1856年7月9日に御参詣記録あり)
新・京築風土記は美夜古郷土史学校事務局長である山内公二さんが取材されています。
昭和15 年 福岡県生まれ。行橋市役所に勤務し、教育部長等を歴任。退職後『行橋市史』編纂に従事。行橋市文化財調査委員、美夜古郷土史学校事務局長、福岡県地方史研究連絡協議会理事などを務める。著書に『京築風土記』、『ふるさとの思い出写真集 行橋』、『京築の文学碑』(共著)、『中津街道』(共著)、『京築文化考』(共著)などがある。
山内氏は以前より享保飢饉についても調査されており、色々と勉強させていただきました。
取材に感謝申し上げるとともに、今後とも御指導よろしくお願いいたします。
2017年4月10日に『新京築風土記』として出版され、正受寺の記事も記載されています。
ご覧いただければ幸いです!